振り返り更新・その1「中澤裕子」
そろそろ書かないと時間切れになってしまうw
でも全然書けてなかったので、大急ぎで書き上げました。
実は他メンの分も全然書けてない(爆)
認識時期
1997年6月@ASAYAN
初遭遇日
2004年8月8日@京都駅ビル・室町小路広場(アルバム発売記念握手会)
推し開始時期
1997年10月
これまで
ハローとの出会いは本当に偶然の積み重なりでした。
たまたまASAYANを見ていて、たまたま裕ちゃんに目に止まりました。
といっても理由は関西代表&最年長ってことで(爆)でもまだ興味なしの時期です。
その後、オーデ落選→再招集→ユニット名決定→愛の種レコーディングと続きましたが、それでもまだ興味なしの状態でした。
転機は1997年10月。
レコーディングで行き詰った裕ちゃんが、突然髪を切って現われました。
「ここまでするんや…この人本気や…」ということで、このとき初めて推す気になりました。
ただ、そのあとで
(0―0ヽ)<関係ない
私はまだ本気になる前だったので聞き流しましたが、今思い返すと「このボケしばいたろか!」と怒ってしまいます。実はこのときからプロデューサーに対する不信感は今でもずっと持っています。
5万枚手売りは絶対失敗すると思っていました。
どう考えても実現可能な数字じゃない…どう見積もっても4万枚行かないだろうと。
で、1997年11月3日の手売り@大阪に行くつもりでいたのですが、当日体調不良で断念orz
頭痛がひどくて動けなくなったのですが、後日放送によるとこの日の手売りは大混雑で大混乱したそうなので、体調面を考えると賢明な判断だった…のかも?
ともかく、結局ここから7年も在宅にorz
激動の時期でしたが、時が経つにつれて裕ちゃんと娘。に対する気持ちは本気になっていきました。(当時は他ユニットには興味なし)
ただ、不安はありました…裕ちゃんはいつまで娘。に残るのか?裕ちゃんのいない娘。などありえるのか?
当時の推しメンは裕ちゃんとのの。のの1人で支え切れるのか?
2001年3月7日
昼のテレビで「中澤裕子卒業!」の報が入ってきました。
いつかは来ると覚悟していましたので、まだ冷静でした。
このときの最大の不安は「ハローに残るのか?」ということ。これまでの卒メンは3人ともハロー残留していない…裕ちゃんはどうなのか?もし残らないなら…
結論は残るということでとりあえず安心はしました…でも裕ちゃんのいない娘。に対する不安は残ったまま。
在宅の私は当然卒業式には参戦できず…ニュースとライブDVDでのみ状況を知る状態でした。
娘。推しの感情は弱まっていましたが、裕ちゃんはハロモニ。で娘。との共演を続けていましたし、気持ちが途切れないままこんこんが加入して娘。推しは再始動できました。
それでもハローにおける最優先メンバーは裕ちゃんのまま。
現場参戦の機会がないまま何年も経ち…ついにこの日が来ました。
2004年8月8日 京都駅ビル・室町小路広場
7年も待ったこの日、ついに裕ちゃんと対面できる日
「この機会を逃したら次はない!」と参戦を決意。
真夏の暑い日で、初現場で何もわからないまま朝から並んでましたw
ずっとずっと憧れていた裕ちゃんは、とても素敵でした!
初参戦紺となった夏ハロ2005の会場は大阪城ホール=中澤裕子卒業の地
偶然でしたが、これも何かの巡り合わせだったのかもしれません。
ゆゆ現場では貴重な体験もしましたし、いろいろな出会いもありました。
SI☆NA(当時:ハロプロ関西)を初めて見たのはクリコン2006でしたし、大事な仲間との出会いもありました。
ですが、現場歴が長くなるにつれてだんだんゆゆ現場に対するパワーが落ちていったように感じています。
8年遅れという立場で現場を見て感じたのは「おまいつ重視」という風潮…これでは新参は入れません。
娘。リーダー時代の攻める姿勢があまり感じられず、現状に対する守りの姿勢が見え隠れしているような…。
入りずらい状況が続くと、現場の主軸は少しずつ活動しやすい場所に移っていくことになります。
そりゃエルダーメンでは今も裕ちゃん最優先ですけど、全体的にはBerryzとSI☆NAが優先になっている状況です。